「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
釧路湖陵高校から東大に入ったという阿部幸大氏が書いた「《底辺校》出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」という文章が話題になっていた。フェイスブックで最初に教えてくれたのは釧路出身の教え子で、それから元同僚の先生も話題にしていた。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353
私にとってはいささか違和感のある記事だったのだが、やがてネット上でも批判が高まったので、まあ、気にせずにいた。だが、元同僚と語り合ううちに、この記事は私や私の授業を受けていた学生たちの人生そのものを否定しかねないものであることに気づいた。それでも黙って耐え忍ぶのが大人の対応というものなのだろうが、せっかくいろいろ考えたので、元同僚とのディスカッションを通して見えてきたことを整理しておく。
自分の問題として考えるようになった理由は、阿部幸大氏が東大の現代文芸論の出身だということを知ったからだ。私は現代文芸論の母体になった西洋近代語近代文学専修の出身なので、いわば彼は後輩に等しい。同じ場所で同じものを見てきたのだから、彼の話は他人事ではない。阿部氏が東京の「サラブレッド」を見て感じた驚きは、私も経験した。神保町の三省堂に初めて行った時は、天国のような場所だと思った。それでも私はこの記事に全面的に賛同することはできない。
この記事で阿部氏は、能力のある若者でも田舎にいると、「大学に進学する」可能性に思い至ることのないまま、人生を終えてしまうと嘆いている。これは正しい。一方で、「田舎では貧富にかかわらず、人びとは教育や文化に触れることはできない。たとえば、書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない」と書いたため、釧路には「コーチャンフォー」も大学も美術館もあるではないか、と批判を浴びることとなった。
私が最初、違和感を抱いたのも同じ部分である。稚内で21年働いていた私にとって、美術館や書店のある釧路や帯広は憧れの街だった。釧路や帯広と稚内との差を少しでも縮めたいと思って、頑張ってきたのだ。この記事はそんなささやかな目標を、「田舎」のひとことであっさりと否定してしまう。
もっと言えば、稚内ですら私にとっては「大きな町」だった。「若者が集まる場所といえば《ジャスコ》しか」ないと阿部氏は嘆くのだが、私の中学時代に若者が集まる場所といえば、プレハブ作りのゲームセンターでインベーダーゲームをするか、海で泳ぐしかなかった。高校は隣の市まで通ったが、生徒がたむろしていたのは高校のすぐ横にあった「白ばらベーカリー」で、まあ、駄菓子屋のような雰囲気の店だった。生活圏内には大きな書店も美術館もなかった。中学時代を過ごした町の図書館は本当に小さなもので、稚内の図書館の方がはるかに立派である。
ちなみに、私は神奈川県の出身で、高校の先輩には首相やノーベル賞受賞者もいる。まさか、神奈川県の人間が釧路に憧れていると阿部氏は思わなかったのだろうが、それが現実である。日本中のほとんどの地域は阿部氏の言うところの「田舎」なのだ。
だから、私は「このような格差の紹介は、日本ではまだまだ驚きをもって受けとめられている」という阿部氏の文章も奇異に思えてしまった。ここで記されている「日本」というのは、どこにあるのだろう?それは阿部氏が例に挙げた筑波大付属駒場高校の生徒のような、東京のエリート層に限定されるのではないだろうか?結論部では「田舎の子供たちに、彼らが潜在的に持っている選択肢と権利とを想像させてやることであり、ひいては、東京をはじめとする都市部に住む人びとに、もうすこし田舎の実態を想像してもらう」と書かれているわけだが、まさにそれはこの文章が「田舎の子供たち」と「東京の住民」のみに宛てて書かれたことを示している。
阿部氏の世界は「田舎の子供たち」と「東京の住民」で完結している。「田舎」で文化事業や教育事業に携わっている人はたくさんいるにもかかわらず、釧路で働く大学教員や学生たちは影のような存在として、忘却されてしまう。阿部氏は「視界に入らない」と言うのだが、それは彼が見ようとしなかっただけだ。
私は稚内北星学園大学の教員として、21年間働いてきた。都会の大学に進学するのが困難な層を念頭に設立された大学だ。実際のところ、阿部氏の指摘するように、進学率が低いのは経済的理由だけではなく、大学進学の可能性を考えない層がたくさんいるからなのだが、稚内北星学園大学は市内のそのような人々に対して、「専門学校ではなく大学に行こう」と訴えるビラを全戸配布してきた。「高卒を馬鹿にするな」という苦情の電話が大学に来た。それでも大学はくじけなかった。
私自身は主に空知の高校をめぐって、「専門学校ではなく大学に行こう」と訴え続けてきた。釧路や根室の高校にも行った。稚内の高校生に対して、大学の意味を直接語る機会もあった。だが、「田舎の子供たち」と「東京の住民」で完結している阿部氏の文章からは、「田舎の大人たち」のそうした努力がすべて排除されている。
フルブライトでアメリカ留学をしているエリートの阿部氏はやがて、東京の一流大学の教員になるのだろう。釧路に戻って、学生の勧誘をするかもしれない。だが、東京に出る経済力や学力のない学生や、北海道の教育・文化を向上させようと努力している大人たちのことは、永遠に彼の視界には入らないのだろう。「十代の頃は田舎に向けるしかなかった私の不満と怒りは、いま、田舎に対してではなく、地域格差という現実、そして田舎の実情を無視しようとする態度、それらへと向けられている」と阿部氏は批判に応えて書くのだが、田舎の大人たちに背を向け、「田舎の実情を無視しよう」としているのはむしろ阿部氏の方だ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505?page=5
ちなみに阿部氏が「底辺校」と呼ぶ中学校は、アイスホッケーの名門校らしい。お勉強の名門校があるのは東京だが、アイスホッケーやスキーやスケートの名門校があるのは北海道で、高校であれば全国から生徒が集まってくる。私はそんな北海道の文化的豊かさに惹かれて北海道に赴任してきたわけで、これからも北海道独自の文化や環境を守って、生きて行くつもりだ。
ラブレス
ズヴャギンツェフ監督『ラブレス』を見た。現代ロシア社会を理解するためには、必見の映画かもしれない。
『アンナ・カレーニナ』は子供を取り合う話だが、これは子供を押し付け合う話だ。ネグレクトや児童虐待はもちろん日本にもあるのだが、そういう粗暴さとはちょっと違う。この映画の親たちは自己実現に夢中で、しかし、それは仕事や恋愛を通してしか成立せず、だから、子供が邪魔になってしまう。自分の仕事や恋愛は「成功の物語」として認識されているのに、育児はそうなっていないのだろう。
日本では「子供に夢を託すな」というCMソングまで作られてしまったわけだが、正反対の世界だ。
映画の親たちは双方が不倫をするほど社交的なのに、どちらからも同性の友達の存在を感じられない。同性の友達との連帯が人生を支えていたソ連映画『モスクワは涙を信じない』や『運命の皮肉』の世界とはまったく違う。
そんな時代の変化を伝えるかのように、ソ連期の文化会館らしい建物の廃墟が、子供の秘密基地として登場していた。
イオンモール札幌平岡
海外出張の航空券を購入するために、仕事の後、イオンモール札幌平岡のHISに行った。札幌駅の方がたぶん距離は近いのだが、車の数が多いし、駐車場代もかかってしまう。平岡のイオンには家や職場から15分で着くし、駐車場も広い。
電気用品も売っているので、研究室を掃除するための小さな掃除機を買った。今日は時間がなくて行けなかったが、理髪店もある。何かあったら、また行ってみよう。