懺悔
テンギズ・アブラゼ監督の『懺悔』をシアターキノで見た。ペレストロイカ期のソ連で話題となった映画だ。
この映画を前に見たのは日本初上映の時で、1992年に「自由と人間」国際映画週間オープニング作品として岩波ホールで上映されたらしい。26年ぶりに見たことになるが、再履修のような気分できちんと見ることができた。何しろ最初の時は、タルコフスキーをやると言われてフェリーニを見せられたような話で、戸惑いが大きかった。
全体主義の犯罪の加害者を告発するというよりは、法的には責任のない加害者の子孫たちの良心を問う寓話である。一方で、自殺まで強いる被害者の告発についても、観客の共感を喚起する一方で、さりげなく「罪」という言葉が用いられている。最後には「全ての道は教会に通じる」という理念が、実に素朴な形で提示される。
スターリンを生み出した国ジョージア(グルジア)の映画なのだが、最初に見た時から流れた26年間の出来事を思うと、謝罪をすればするほどこじれていった日韓関係が頭をよぎる。
ヒトラーと戦った22日間
『ヒトラーと戦った22日間』を見た。
『ナイト・ウォッチ』の主演俳優として世に出た、コンスタンチン・ハベンスキーの監督第1作。脚本や主演もハベンスキーが務めているが、しかし、ハベンスキーはクリント・イーストウッドでも北野武でもない。狂った宴の場面はカット数の多いエネルギッシュな演出がなされているが、詩情には欠ける。だが、その分、殺人という苦いテーマは生々しく伝わってくる。
ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺する一方で、蜂起するユダヤ人はナチスの軍人を1人ずつ暗殺していくのだが、その殺害は英雄的に描かれてはいない。囚人たちは一線を越える形で殺人を犯し、また、最後まで殺しに踏み切れない者もいれば、心を乱す者もいる。殺害はあくまで苦い行為として描かれている。こういう詩情に乏しい殺人というのは、1990年代以降のロシア文化の特徴と言えるかもしれない。
祈り
昨日は朝6時から夜6時まで働きづめで、家に帰りたいところだったのだけれど、テンギス・アブラゼ監督の『祈り』を見に行った。シアターキノでは1日1回しか上映していないので、昨日を逃すともう見る機会がなさそうだったのだ。
半世紀前に作られた映画といった程度の情報しか知らずに出かけたのだが、想像以上に重厚な映画だった。こんな骨太の映画を見たのは、本当に久しぶりのように思う。現代社会が忘れてしまった真摯な精神がみなぎっている。
冒頭から顔のアップが延々と続く。それらはエイゼンシテインやドヴジェンコの影響だろうが、圧倒的だ。
詩人の前に現れた女神が悪魔と結婚させられ、絞首刑に処されるという寓話、殺した敵の右手を切るという風習に従わないため村を追われるキリスト教徒、キリスト教徒を家に招いたため村人から迫害されるムスリム、という3つのエピソードから構成されている。主人公たちは破滅に追い込まれても信念を曲げず、信念を曲げなかった者の心は肉体が滅んでも消えないとされる。ローカルな文化をエキゾチックに描くのではなく、芯の通った生き方が示される。
スターリンの死後15年も経たないうちに作られた映画だから、集団行動が悪や暴力に傾いてしまうという主題はスターリニズムの経験にもとづくものだろう。だが、そのような特定の時代や場所を忘れてしまうのは、純粋で強靭な精神が映画を支えているからだ。