希望の樹

 午前中はPTA活動で「落ち葉拾い」をするというので中学校に行ったら、「落ち葉拾い」ではなく、中学校の前の歩道の花壇の花を抜いて、チューリップなどの球根を植えるという、植え替え作業だった。

 抜いた花は捨ててしまったのだけれど、少しもらって家のプランターに植えた。根が付くかどうかは不安。

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 昼食後、眼鏡のフレームが壊れていたので、新しいフレームに入れ直してもらい、夜は見やすくなった眼鏡をかけて、シアターキノで『希望の樹』を見た。

 『希望の樹』の日本公開は1991年なのだが、今、見直してみると世界の諸民族の映画に文化人類学的な関心が寄せられ、『へるめす』などがカーニバルを称揚していた80~90年代の空気が思い出される。同時多発テロ事件や新自由主義経済などに押されたのか、バフチン的祝祭も大江健三郎的ミクロコスモスも流行は過ぎ去ったように思えるのだが、もう一度、世界に「樹」を探すべき時代が訪れているのではないかと、映画を見ていて思った……映画の中で男性中心主義が否定されているように、もちろん権威主義的な「樹」を打ち立てるわけにはいかないのだが。いろいろなイメージが都市に溢れていた80年代と比べて、今の時代はやはり空虚すぎるのである。

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