タラシケヴィツァ

 昨日は北大で開催された、日本ロシア文学会北海道支部会に行った。若手研究者の報告が2本、常勤の教員の報告が2本で、いずれもたくさんの質問が出たのは良かったと思う。
 スラブ・ユーラシア研究センターの清沢紫織さんが、ベラルーシ民族主義者が使っているという「タラシケヴィツァ」についての報告を行っていたのだが、民族主義者が《ソ連体制的なもの》に抵抗するという80~90年代の枠組みがそのベースにあることは理解できたものの、民主主義と権威主義に世界が2分されている新冷戦期に、こうしたものをどう評価すべきなのかは、報告者にいろいろ質問してはみたが、よくわからなかった。
 《ソ連的なもの》を懐古的に期待する声が支配的で、それに対するカウンターが存在するという国内的な事情は理解できるのだが、最近はルカシェンコ大統領もロシアから距離を置いてEUに接近しているというし、にもかからわらず権威主義体制が続いているわけだし、また昨日の報告によれば「タラシケヴィツァ」を用いる民族主義者たちは反露ではあっても欧米の民主主義を志向しているわけでもないようだし、モヤモヤっとした気分が消えない。