ロシア詩のつどい

 札幌大学で「ロシア詩のつどい」が開催された。

 ロシア語専攻の1年生らがロシア詩の暗唱のコンクールを行い、それから3、4年生も参加したブルガーコフ「犬の心臓」の演劇や、マヤコフスキーの詩の朗読があり、さらに学外からいらした方々(ロシア語話者の方が多かった)による詩の朗読、それから中川速男さんによるギターの素晴らしい弾き語りと、盛り沢山な内容だった。

 私の担当はコンクールの審査委員長だった。審査員は日本人2名、ロシア人2名の構成で、おおよその採点は皆、一致するのだが、中には日本人とロシア人で評価が割れる学生もいた。理由を聞くと発音に難があるということなのだが、日本人のロシア語教師には許容範囲でも、ロシア人にとっては気になる発音もあるということなのだろう。

 札幌大学のロシア語教育は「習うより慣れよ」というところが伝統で、たとえばロシア革命やそれを振り返る意義(たとえば、ポピュリズムの問題など)をまったく説明しないまま、いきなるブルガーコフの小説やマヤコフスキーの詩を体に叩き込まれるので、学生たちは自らの活動の意義を100%理解しているわけではない。知識を増やすのではなく、まずは言葉を身体化するというこの教育方法は、「声に出して読みたい日本語」にも通じる非常に素晴らしいもので、私は20年近く前からある種の憧れと敬意を抱いていたのだが、今日の場合も特に後半の学外者の方々のパフォーマンスは通訳も一切なかったため、1年の学生たちや見学に来ていた新陽高校の生徒さんたちにとっては、外国に来ているような疎外感を与えるものになってしまったかもしれない。

 公式の招待者もモスクワ大学の先生方や領事館の書記官の方など豪華だったのだが、その社会的な、あるいは国際的な意味(札幌の若者にロシアがかける期待)がどこまで伝わったのかも、いささか心配ではある。

 領事館やモスクワ大の方々を前に進行を乱して割り込むわけにもいかないので、会の終了後になってから顔見知りの何人かの学生に、『犬の心臓』の政治的な意味を、今日、どれだけ大切な営みをしていたのかを簡単に説明してみた。自分の存在の大きさ、自分の関わっている活動の素晴らしさを、正確に見積もってもらえたらと願う。