未来の学校

 お盆休みの旅の合間に、トニー・ワグナー『未来の学校』(玉川大学出版部)を読んでいた。

 ちょっと微妙な本で、簡潔にまとめると「高校の授業では知識の詰め込みではなく《生き残るためのスキル》を」、「教育成果を挙げられない教員は退場すべき」という日本の官僚が大喜びしそうな内容なのだが、ていねいに読むと日本の教育改革とのずれが際立ってくる。

 「コミュニケーション能力」が必要だといっても、それは「空気を読む力」のことではなく、「明晰な文章を書く力」だったり、「外国語でコミュニケーションする力」だったりする(40-41頁)。

 知識の詰め込みが批判されている一方で、「科目の核となる知識」や「文化リテラシー」は必要だとされる(306頁)。

 無能な教師が厳しく批判される一方で、「教育改革の努力があまり実らない理由の一つは、それらの努力が、従属的で、懲罰的で、根底に教員に対する根深い不信感を抱えているから」(352頁)と教師への敬意を要求している。

 著者が職業教育に関心を払うのは格差社会を解消させるためでもあるが、「G型とL型」のような議論がなされる日本では、エリート層と労働者層、都会と地方が切り離され、格差が拡大することだろう。

 日本の「授業研究」の実践が高く評価されていたりもする(189-190頁)。

 本書の主張する「生き残る力」は文部科学省の「新しい学力観」と重なるものだが、人文科学を否定したり、地方の大学を職業訓練に専念させようとしている日本の教育改革は、まったく逆の方向に進んでいるように見える。

 最低賃金で働く、あるいは働くことはできない貧困層が存在するという社会の現状を一旦、認めた上で、そこから脱出するために必要な教育とはどのようなものなのかを問うのがワグナーの立場だ。したがって、学生がローンを組んで高額の授業料を払っているにもかかわらず、卒業しても賃金の高い職を見出すことが難しいという大学の教育も批判されることになる。

 冨山和彦氏の提唱するL型大学(下のリンク)にしても、田舎の生産性や給与を上げるためのものなので、そもそもの発想はワグナーと同じなのだ。だが、「田舎の被雇用者は法律を知らなくてもいい、大型二種を取ればいいんだ」、「田舎の観光業者はシェイクスピアを知らなくてもいい、地元の名所旧跡だけ知っていればいいんだ」という例示は、その目的に適うものではまったくなかったし(法律を知らないスタッフが総務を担当できるのだろうか?シェイクスピアも知らないような観光ガイドが富裕層の顧客を満足させられるのだろうか?)、そこには個人の能力を伸ばすのではなく、逆に制限する発想がうかがえる。ワグナーの重視する「生き残るためのスキル」や「文化リテラシー」は都会のエリートにのみ必要とする後ろ向きな姿勢は、主体的な若者の育成にも、若者による活気あるコミュニティ形成にも、おそらくはつながらないだろう。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf