8時間労働制

 もう20年以上、教壇に立っているわけだが、その中でも学生から想定外の反応が出てきた授業は、思い出に残るものとなっている。授業改善についての新聞記事を読むよりは、学生の反応を見ている方がずっと勉強になる。

 今日の授業も、そんな忘れられない授業になった。

 知識偏重ではダメだ、考える教育が大切だ、と言われる。そうは言っても、鎌倉幕府は頼朝が開きましたとか、レーニンがロシア革命を起こしました、といった前提となる知識がなければ考えることもできないわけで、私が担当するような外国文化の授業はまず知識の伝達から始まることになるのだけれど、今日は学期末なので「考える」ことに取り組んでみた。

 「ロシア革命はなぜ起こったのか」、「アヴァンギャルド芸術に代わって、社会主義リアリズムが出現したのはなぜか」という問題を、学生たちに考えてもらった。

 教室で発言を引き出すためのいくつかの方法も新たに知ることができたのだが、昨今の世の中では、学生たちの反応を具体的に書くことはははばかられる。一般的な発見だけを書くことにするが、現代社会の支配的なイデオロギーや不安は、ロシア革命のような外国の過去の出来事を理解する際にも影響するということに、改めて気づくことができた。

 たとえば、現代の日本の若者にとって失業と過労死のどちらが不安かと言えば、おそらくは失業なのである。就職活動という試練に挑んでいる学生の場合は、特にそうだろう。同様に、努力や競争という営みも、学生には身近なものとなっている。だから、社会主義体制という言葉から連想されるのは、「失業のない社会」、「競争のない社会」ということになる。もしかすると、学生ではなく日本人の大半がそう思っているのかもしれないし、ソ連解体などを考える際には、こういう理解も的外れとは言えない。

 だが、革命の起こった時期のロシアは第一次世界大戦中であり、人不足だったのだ。そして、労働者が要求したのは、8時間労働制だった。彼らは「働きたい」と思ったわけではなく、「働きたくない」と思って革命を起こしたのである。

 「競争」にしても、帝政ロシアの農民と貴族の間には、努力では乗り越えられない溝があったわけで、革命によって「競争」が失われたと簡単に言うことはできないだろう。

 歴史的事実とそれについての理解の「ずれ」を修正するにはとても大事なことだが、それにはまず教師と学生の「ずれ」を埋めなければならない。教師が学生のことを理解しなければならない。そのことを改めて実感できた日だった。

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 ところで私自身も、8時間労働制の意義や歴史を学校の授業できちんと教えてもらった記憶はない。学生時代に八王子のセミナーハウスで社会主義体制解体についてのセミナーか何かがあった時、直野先生の班で別の大学の共産主義者の学生と一緒になったのだが、自由のない社会主義体制はロクなものではないと唱える私に対し、彼が「ロシア革命がなければ8時間労働制もなかったんだ」と力説するので、それで心に刻みこまれたのである。

 あれも忘れられない思い出になった。彼は今、どこで何をしているのだろう?