マチルダ
合宿に行く子供を集合場所の真駒内公園に送ってから、西岡病院でインフルエンザの予防接種をし、それからシアターキノにウチーチェリ監督の『マチルダ』を見に行った。
年末の狸小路は観光客で賑わっていたが、映画館は閑散としていた。少し残念。
「スキャンダラスな映画ではなく普通の映画だ」とか、「つまらないから見ない方がいい」とか、いろいろ聞いていた『マチルダ』だが、カメラワークのしっかりした立派な映画だった。写真文化や映画史への言及もたくさんあったし、きらびやかな人々の上をカメラがゆっくりと流れる戴冠式の光景は、華麗すぎるものだった。
妄想が暴走している感もあり、むしろ、映画が進むにつれ、偏執狂的な世界に引き込まれてしまうのだが、芸術というのは私たちの予想や期待を(あるいは作者自身の意図さえも)超えたところで生まれ、そういう超越的な場所に私たちを引きずり込むものであったはずだ。「わけがわからない」、「とにかくすごい」、だから芸術なんだ、と、私たちはかつて語っていたのではなかったか?
ズヴャギンツェフにしても、シャフナザーロフにしても、ハベンスキーにしても、何をやりたかったのかは予想の範囲に収まっているのだが、ウチーチェリはそうではない。非凡な監督だと改めて思った。
帝国の虚ろな風景
年内の授業は昨日で終了。最後の講義は「雪どけ後のソ連映画」をテーマとしたものだった。
夜はスラヴ・ユーラシア研究センターで、安達大輔氏の公開講演「帝国の虚ろな風景―19世紀ロシア文学と否定性の実験」を聞く。18世紀からゴーゴリに至るまでの、ロシアの風景観の変化をたどったもの。報告の枠を外れるが『ルーシの地の滅亡の物語』に見られるような愛国的な自然観が、18世紀の西欧的風景観、自然観に押しのけられる過程というのはどのようなものなのだろうかと、ふと気になった(自分でも考えたことはまったくなかったのだが)。
公開講演には札大の学生も3人やってきていた。いろいろな場にどんどん顔を出すのは良いことだ。東京に比べたら小さい街なのだから。
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明けて今日は、別の学生を連れてキロロに行く。3時間券を買って、オープンしているほとんどのコースを1本ずつ滑った(余市2A・BとエキスパートA・Bだけは、時間が足りなくて回れなかった)。
新雪が部分的に積もっていたり、霧で視界が悪かったりと、チャレンジングな状況ではあったが、柔らかい雪を切って大回りをするのも、コブの育っていない未圧雪バーンで小回りをするのも、楽しいものだった。
AES+Fと革命
2017年8月5日に京都大学で開催された研究会「ロシアにおけるファンタスティカ ファンタスティカにおけるロシア」での報告 "AES+F и революция" を、本務校の紀要に掲載してもらった。
研究会では映像を流す時間が必要だったため、原稿自体はとても短いものなのだが、会場ではそれなりに好評だったので、活字にしておいても良いかと思って。
Кадзухиса Ивамото. AES+F и революция// Саппоро дайгаку сого ронсю. Т. 46. 2018. С.137-142. http://id.nii.ac.jp/1067/00007547/
去年は革命100周年をテーマとした講義を札大の2号館で行っていて、この報告もそれに関係していないわけではない。写真は今日の2号館。今年度から2号館で行っているロシア文学史の講義も、社会主義リアリズムまでたどり着いた。