チェーホフ 七分の絶望と三分の希望
JSSEESの38号に、沼野充義先生の『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』の書評を掲載している。
Kazuhisa Iwamoto, "Mitsuyoshi Numano, Chekhov - Seventy Percent Despair and Thirty Percent Hope (Tokyo, Kodansha, 2016)", Japanese Slavic and East European Studies, Vol.38, 2017, pp.93-95.
ただ、依頼されてから3か月くらいで急いで書いたという事情もあるが、あまり良い文章にできなかった。本の構成や論理に従いすぎた。恩師の著書なので、律儀になりすぎてしまった。
入稿してから半年が過ぎた今、思うのは、チェーホフの同時代の社会に焦点を当て、チェーホフとその作品を歴史的な視野で再解釈しているかのように振舞う本書だが、そのような振舞いとは逆に、歴史的文脈から超然とした形で作家自身と作品のユニークな性格を顕在化させているのではないか、ということだ。
チェーホフは洒落者であり、同時にリアリストだった。その作品の登場人物たちもまた残酷な社会に暮らしながら、飄々としている。本書の中では、死を前にしたチェーホフに運ばれたシャンペンが強心剤だったのではないか、という考えが述べられているが、これも粋と残酷な現実の間の深淵に向けられたものだろう。書評の中ではそうした考えの一端も示してはいるのだが、やはり生真面目に構えすぎてしまい、チェーホフや沼野先生からはほど遠い、無粋な文章になってしまったのが悔やまれる
ノートPC用クーラー
去年の夏に続いて、またノートPCが壊れた。たぶん暑さのせい。
一昨年、買った製品だというのに、1年おきに壊れている。修理代は5万6千円くらいかかる。
そんな出費が毎年の風物詩になっても困るので、お店の修理担当の方に故障を防ぐ方法はないのか聞いてみた。
「埃が詰まって故障することが多いので、空気清浄器を付けるとか」
「他にはありませんか?」
「あ、ノートパソコン用のクーラーというのもあるんですよ」
「え!?」
さっそく購入した。去年、教えてくれれば良かったのに。
グリーン・フォレスト
アイスクリームを買いに娘とイオンに行って、ついでにウィスキーを買おうと思ったところ、「フクロウの絵がかわいいから、このウィスキーを買うといい」と娘が言うので、謎のウィスキーを買ってしまった。
山梨のサンフーズというところでブレンドしているものらしい。
アルコールの辛さがきつい一方、ウィスキーのこくや香りは薄いのだが、そんなに悪い味ではない。夏だから、こういう方が良かったりする。
ロシア詩暗唱コンクールとモスクワ研修報告会
今日の午後、札幌大学ロシア語専攻の恒例行事になっているロシア詩の暗唱コンクールがあり、1年生が学習の成果を披露した。今年の参加者は努力した人が多かったのだそうで、僅差の争いだった。
去年は2年生以上の学生による寸劇などもあったのだが、今年はその部分はモスクワ大の先生方がいらした時に「文学のつどい」として実施してしまったため、それに代えて、2月のモスクワ研修の報告会が行われた。
学生の話を聞いていると、どうも観光地よりもスーパーマーケットの方が印象的だったようなのだが、外国での生活というのはそういうものなのかもしれない。
タラシケヴィツァ
昨日は北大で開催された、日本ロシア文学会北海道支部会に行った。若手研究者の報告が2本、常勤の教員の報告が2本で、いずれもたくさんの質問が出たのは良かったと思う。
スラブ・ユーラシア研究センターの清沢紫織さんが、ベラルーシの民族主義者が使っているという「タラシケヴィツァ」についての報告を行っていたのだが、民族主義者が《ソ連体制的なもの》に抵抗するという80~90年代の枠組みがそのベースにあることは理解できたものの、民主主義と権威主義に世界が2分されている新冷戦期に、こうしたものをどう評価すべきなのかは、報告者にいろいろ質問してはみたが、よくわからなかった。
《ソ連的なもの》を懐古的に期待する声が支配的で、それに対するカウンターが存在するという国内的な事情は理解できるのだが、最近はルカシェンコ大統領もロシアから距離を置いてEUに接近しているというし、にもかからわらず権威主義体制が続いているわけだし、また昨日の報告によれば「タラシケヴィツァ」を用いる民族主義者たちは反露ではあっても欧米の民主主義を志向しているわけでもないようだし、モヤモヤっとした気分が消えない。