新海誠展
特に新海誠のファンというわけではなく、勉強が目的なのだが、写真を加工するのではなく、パーツに分解してレイヤーを重ねていく背景の制作方法や、フォトショップのブラシなどは面白かった。
新海誠の作品に感じていた違和感も、自分なりには整理できた。
彼の作品がナイーヴすぎる感性にもとづいているのは誰もが気付くことなのだけれど、今回の展覧会でまっすぐに空を見上げる「コスモナウト」の少年少女の顔を見ていたら、ソ連の「労働者とコルホーズの女性」像は、ソローキン『氷三部作』を思い出してしまった。
それがなぜなのか考えたのだが、それらに共通する神話的な男女の姿が、純粋すぎるために邪にさえ思えてしまうのだ。また、塔や階段や上下の視点移動といった垂直性が新海誠の作品で好まれていることも、理由のひとつだろう。ゲーム「イースII」の新海が作ったというオープニング映像も展示されていたが、垂直性への志向、現代化された崇高美はそこに典型的かつ決定的な形で現れている。
モラトリアムな若者の心理が全体主義芸術的な崇高さに接続されているのだと思ったら、頭の中がとてもすっきりした。新海誠の作品がイデオロギー的と言いたいわけではなく、身近な「ここ」と崇高な「そこ」の断絶を一気に跳躍する事態を前に、柔軟さを欠いた私の感覚が戸惑っていたのだろうという程度の話である。
父さんは辛い
土日はルスツでスキーパトロール検定会があったのだが、養成講習で担当した受検者は合格してくれそうだったので(そして、実際に合格の連絡が届いた)、私は朝里のアトミック・タキスポカップに子供の応援に行った。去年まで所属していた稚内の少年団の、コーチや父兄や子供たちにも再会できた。
娘と同じクラスには、インフルエンザ明けで不調という子がけっこういた。病気でなくても不振が続くことももちろんあり、そういう場合も子供を連れてきている親御さんは辛いことだろう。去年はうちの子も下位に低迷することが続いたし、今年も入賞するレースと悪い結果(2桁順位や途中棄権、欠場)のレースが交互に繰り返されているので、そんな気持ちは十分に経験しているつもりである。
親がひと声かけることで滑りが良くなることも、ダメになることもある。他のスポーツと違い、スキーのチューンナップや会場への送迎、ビデオ撮影など、スキーには親の出番が多いので精神的負担もいよいよ大きくなる。うちの子が今、所属しているチームは、それらをコーチや子供たち自身がやっているので親の出番はまるでなく、気持ちの面ではかなり楽なのだが、頑張っているよその親の姿を会場で見ると、胸が締め付けられるような気持ちになる。
ノーベル文学賞と新しい世界の文学
某高校で「ノーベル文学賞と新しい世界の文学」というテーマの出前授業を行った。
第2次大戦後の巨匠の受賞、反体制作家の顕彰、非西欧文学の紹介といったノーベル文学賞の過去の諸傾向を振り返った上で、ここ3年の新しい動きに焦点を合わせてみた。取り上げた作品は、アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』、『セカンドハンドの時代』、ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」、イシグロ『日の名残り』、『私を離さないで』。
「ライク・ア・ローリング・ストーン」や『日の名残り』は失敗に終わった人生を語り、それ以外の作品は成功の可能性を奪われた人々について語っている。このラインナップだと社会的な成功とは別の生について考えざるを得ないわけで、それは文学のひとつの側面ではあるのだが、未来への夢を模索する出前授業という場には重すぎた内容だったかもしれない。
しかし、若い人たちにこそ日の当たらない場所について考えてほしいし、そういう意味では自分なりに誠実に講義をしたつもりである。
希望のかなた
かつて『真夜中の虹』で都会に流れ着いた失業者を描いていたカウリスマキだが、今回の映画はアレッポからフィンランドに流れ着いたシリア難民だ。『真夜中の虹』と同様、収監され、脱走する。
難民が社会に受け入れられるには笑っていなければならない(ただし、笑いすぎると頭がおかしいと思われる)、という切ないセリフがあったのだが、この映画を見た観客が外国人排斥はいけないという気持ちになるのだとすれば、それは映画に登場する難民やホームレスたちがやはり、怒っているのではなく、笑っているからなのだろう。
笑顔を見せる者は社会の脅威にならない。脱走した主人公がレストランで働けるようになったのも、レストランの主人と喧嘩したものの、体格差からまったく相手にならなかったからだ。
そんなことで果たしていいのだろうか、という気持ちもするのだが、かつて住んでいた港町で「ロシア人を入店させない」といった民族差別が横行していたのも「ロシア人は怖い」という理由だったわけで、であるならば「怖くない」ことを伝えるのはまず最初に必要なことなのだろう。